真言宗本山安祥寺建物見取之図(縦82.7cm、横95.8cm) 江戸期における伽藍再興の状況を伝える貴重な絵図です。焼失した多宝塔を中心に観音堂、青龍殿など、現在に伝わる諸堂が描かれています。
切妻造、本瓦葺きの一間薬医門。本坊の表門として元禄年間に建立。疎水によって境内が南北に二分され、南側にあった本坊、鐘楼と共に昭和37年に現在地に移築されました。
文化14年(1817)に建立。桁行三間、梁間三間の入母屋造。内部は一室の空間となっており、中央二本の柱で厨子が構成され、本尊・木造十一面観音菩薩立像が祀られています。
元禄15年(1702)に書かれた「山州名跡誌」には『堂南向本尊十一面観音菩薩 –中略– 五智如来安同堂内』とあり、再建前の旧観音堂には一時期、五智如来も安置されていたと思われます。現在、堂内には四天王立像、徳川家康像などが祀られています。
明和9年(1772)建立。本尊は地蔵菩薩。間口三間、奥行三間の宝形造りで、内部の天井は格天井になっており、格間には極彩色の花卉の絵が描かれています。
安永2年(1773)建立。桁行三間、梁間三間の寄棟造。本瓦葺。江戸時代中期の仏師・清水隆慶彫作の弘法大師像を中心に、開基の恵運僧都、安祥寺流々祖の宗意律師(第十一世)、第二十一世興雅僧正、第二十二世宥快法印のご尊像が安置されています。
間口170cm余りの一間社流造、銅板葺きの建物。
観音堂の北西奥、一段高くなった所に石垣を組んで堀をめぐらした方形の敷地の中にあり、その歴史は古く開創に遡ります。開基恵運僧都が中国長安青龍寺より鎮守の青龍権現を請来し、上・下両所の伽藍を建立するにあたり、その青龍の御體を鎮守として祀ったことに始まります。以来その変遷は定かでありませんが、豊臣秀吉の造立した方広寺大仏殿の再建を命じられた木食応其上人によって、再造営の大業成就を祈願して文禄3年(1594)に再建され、元和5年(1619)に現在地に移築、現社殿は嘉永6年(1853)に造り替えられたものです。
弁天社は梁桁2尺、一間社流造の小社で大正14年に再建されたとの記録が残っていますが、それ以前の事は定かではありません。
平成10年に解体修復が行われています。
「河は文明の母であった」とも言われ、古代インドにおいて河が崇拝の対象として神格化されたもので言語や文字、音階などの神として地位を持ちます。池の中や川の畔などに祀られる事が多く、安祥寺の弁天社も山からの水を引いた池の浮島に建てられています。
戦国の兵火に焼かれた多宝塔は、時を経て宝暦9年(1759)に漸く今に礎石の残るこの地に再建されました。総高7丈5尺(約23m)、2丈4尺5寸(約8m)四面の二重宝塔で、塔内には安祥寺開創時に上寺伽藍の礼仏堂本尊であった五智如来坐像(国宝・京都国立博物館寄託)が祀られていました。
明治39年11月8日の火災により多宝塔は焼失し、塔内安置の像高1丈6尺の多聞天像(伝弘法大師作、明治23年の全国宝物取調で「美術上要用なるものなり」との監査状あり)も同時に焼失しましたが、五智如来坐像はその時既に博物館に寄託されており難を逃れました。
宝暦年間の建立。各部材の木柄も大きく豪壮で、18世紀中期の特質をよく示しています。梵鐘は摂州渡邊安曇寺の鐘で、嘉元4年(1306)に鋳造されたことが刻まれています。当寺に伝来した理由は明らかではありませんが、一説には、豊臣秀吉朝鮮出兵の際、五畿内寺院より陣鐘として差し出された鐘の一つで、事終って返納の時誤って安曇寺の鐘が返送されたと伝えられています。
梵鐘は京都府指定文化財。
五智遍明庭(ごちへんみょうてい)は、五つの智慧の鏡をかかげてこの法界に住まう生きとし生ける一切衆生を遍く照らす五智如来(中央の五石)と、六大(地・水・火・風・空・識)所生の生きとし生ける一切衆生(白砂、石や木々)を表しています。
五智遍明庭について
令和6年(2024)3月オープン。
「せむい」(施無畏)の菩薩とも言われる本尊・十一面観音菩薩は、人間誰もが持つ畏(おそ)れ(恐れ)、心配や不安を、限りない慈悲を以て、取り除きお救いいただく仏さまです。
1200年のいのちを繋いだ安祥寺。この霊気溢れる静かな境内の片隅に設けたお菓子工房より、観音様の慈悲の心と共に、身体に優しく、素材にこだわった手作りお菓子をお届けします。
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