安祥寺とは

安祥寺

開創

 山号を吉祥山、院号を宝塔院とよび、寺名を安祥寺といいます。弘法大師を宗祖として尊信し、その教義を弘め、衆生済度の聖業に精進する高野山真言宗に属する寺院です。
 開創は今から約1170年前、京都に都が遷され平安時代となって約50年後の嘉祥元年(848) 。開基は恵運僧都(弘法大師の孫弟子。中国唐に派遣された留学僧)、建立発願は藤原順子皇太后(仁明天皇の皇后、文徳天皇の生母)です。
 恵運僧都は、弘法大師が中国より伝来された真言密教のまだ日本に伝わっていないものを求めて中国に渡り、これを我が国に移入された当時屈指の高僧で、貞観3年(861)東大寺大仏修理落慶供養では、職衆一千三口の中、開眼導師を厳仕されました。藤原順子皇太后は、仏法尊崇の念に富まれ、密教を信奉し、深く恵運僧都に帰依せられ、四恩報謝、三宝興隆、国家安祥の誓願を以て、安祥寺の建立を発願されました。

盛衰

 皇太后の発願による国家的とも言える寺院開創の由来から、その規模の大なることは推測されますが、造営がほぼ完了したと考えられる貞観の末(875年前後)には、上・下両所の大伽藍をはじめ、塔頭の坊舎七百余宇が駢列し、天智天皇陵以東山科一帯の山野に広大な寺領を有したと伝えられています。広大な寺領田園、所蔵の仏像、経典その他の什宝も夥しく、それらは恵運僧都の書かれた「安祥寺資材帳」に詳しく記載されています。
 寺格も高く定額寺(官寺として官米が給与される限られた寺)に列し、年分度者(各宗の諸大寺で毎年人数を定めて一定期間経論を学ぶ僧)三人が派遣されるなど、僧侶養成の国家的機関の役割も担っていました。寛平4年(892)の太政官府には、「謹んで諸寺の例を検するに、延暦寺は12年、海印寺も亦12年、安祥寺は7年、金剛峯寺は6年、得度の後、寺を出ずるを許さず。各教法を以て国家を鎮護す。これ寔に国に報じ世を救うの道なり」とあります。
 しかし、平安時代の末、11世紀の初め頃には既に開創当初の盛観は漸次失われていったと考えられます。現在、東寺観智院所蔵の「五大虚空蔵菩薩像」(重要文化財)は、恵運僧都が唐より請来し、上寺の五大堂に安置されていたものですが、永和2年(1378)に上寺を参詣した東寺の僧腎宝によって、台風で金堂が倒壊し、安置されていた五大虚空蔵菩薩も破砕し泥土にまみれているのを発見され、東寺に引き取り修理を加えて、観智院に安置するに至ったことが記録に残っていることからも、14世紀中頃には上寺に常住する僧もなく、主要な建物等は殆ど廃絶してしまっていたと想像されます。さらに、その後約90年を経て戦国時代となり、応仁、文明の乱には洛中、洛外は戦火の巷となり、皇居御所、公卿邸宅、その他大寺院等は殆ど焦土と化してしまい、安祥寺もその例に洩れず、上・下両寺共殆ど灰燼に帰し、寺宝の多くが散佚、諸国にあった寺領も失い、興廃はその極に達しました。
 盛衰の歴史の中に於いて特筆すべきは、第十一世宗意律師によって「安祥寺流」が創流され、諸高僧が相続いて董席し、弘法大師嫡流として相承されたことです。殊に、流祖宗意律師より200年を経て、高野山の教学の大成者である宝性院宥快法印は、「三国伝来嫡継来只安祥寺一流也」と当流を受法し、永和3年(1377)に第二十二世に就き、以後当流の法水は高野山に伝わり密接な関係が結ばれました。
 そして、江戸初期より明治3年に至る二百数十年間、高野山宝性院の門主が当寺の座主を兼務し、俗に高野堂とも称され再興の道を歩むことになるのです。

再興

 戦国兵乱の天下も徳川家康により一統されて泰平の世となり、仏法保護の機運が醸成され、家康の深い帰依を受けていた第二十八世政遍は、衰頽の現状と復興を上訴し、慶長18年(1613)に藤原順子皇太后施入の山林及び境内地復旧の令を受け、久方ぶりに寺の面目の一分を回復したのです。その後、観音堂、多宝塔、地蔵堂、大師堂、青龍社などが再建され、上寺跡に残されていた仏像、什宝も移され、現在の伽藍となっています。
 明治以降は高野山宝性院の兼帯所から独立し、明治の仏教受難期、昭和の大戦等を経て、国運の消長と当山もその起伏を共にし、今日に至っています。